コラム

2019/05/01水戸に学ぶまちづくり

公共デザイン本部 公共マネジメント部 研究主幹小林 純子

『一張一弛(いっちょういっし)』という言葉をご存じだろうか。古く中国の故事に由来した言葉で、弦を強く張ったりゆるめたりすることの意味から、ほどよい程度に厳しくしたり、やさしくしたりすることを意味する。
実はこの言葉は茨城県水戸市のまちづくりの思想を表す言葉だという。水戸といえば「水戸黄門」「偕楽園」「納豆」などが有名かと思うが、その水戸黄門、水戸藩第2代藩主・徳川光圀公の子孫にあたる第9代藩主の徳川斉昭公が実践したまちづくりの思想なのである。ほどよい程度に厳しくしたり、やさしくしたりするまちづくりとは・・・?

まず、厳しくする施設が、旧水戸藩の藩校である弘道館(こうどうかん)である。整備された当時の敷地面積は約10.5ha におよび、藩校としては全国一の規模を有していたという。敷地内には正庁(学校御殿)・至善堂の他、武術や医学、天文学、さらに馬場や砲術場までが整備され、総合的な教育施設となっていた。藩士とその子弟には 15 歳で 40 歳までの就学が義務づけられており、生涯を通じて学び続けなくてはならなかった。人材を大切にするが故に、厳しく鍛えるための施設だったといえよう。
一方、やさしいまちづくりのために整備された施設が、梅の名所であり日本三名園の一つといわれる偕楽園である。斉昭公が千波湖に臨む七面山を切り開き、領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと願い、整備された施設である。園内には約100 品種・3,000 本の梅が植えられ、当方が訪れた3月中旬は観梅客でにぎわっていた。勉強に疲れた時には、いい景色を見ながら深呼吸、リフレッシュしてまた学び舎に戻る。まちにおいてそんなバランスが取れるようになっていたのである。

なお、その水戸市も駅前を中心に、大型商業施設の撤退が相次いだが、現在は「水戸ど真ん中再生プロジェクト」などが推進され、また改めてまちの姿が変わりつつある。
本プロジェクトは“水戸のど真ん中を再生し、地方創生のモデルをつくるエンジンとして”
1.あらゆるチャンネルを用いて、民間と行政との協働体制を構築し
2.ヒト・カネ・チエのプラットフォームとして複数のプロジェクトを同時多発的に実行し
3.発信力を強化し、世論を巻き込み、推進力を高める
ものであり、この取り組みの一環として、Bリーグ「茨城ロボッツ」をコンテンツとし、試合を開催する東町体育館の整備やまちなか・スポーツ・にぎわい広場「「M-SPO」の開設、及びグロービス経営大学院の水戸茨城特設キャンパスの開設など、また新たな空間が市内中心部に生まれている。時代を超えて、民間と行政が協働で、この時代に合った『一張一弛』のまちづくりを進めているといえるのではないだろうか。

昨今のまちづくり、特に公共施設について議論をする際には、高度経済成長期に整備された施設の老朽化を大きな課題とし、人口減少・少子高齢化による人口構造の変化や、財政状況の厳しさを踏まえ、公共施設の総量削減を前提に、ハード・ソフトの両面から、どのように必要な公共サービスが提供できる環境を維持するかを検討する場合が多い。削減を前提とする故か、個別施設の計画について検討を進めると、「総論賛成・各論反対」の状況に陥ることが多く、住民の理解を得て進めることが容易ではない状況にある。
そうした中で、住民の理解を得るうえで重要なのは、そもそも、住民がどのように暮らせるまちとしたいと考えているのか。そのために必要/必要性が低い公共施設は何か、まちが提供するサービスをどうしたいのかなど、そのまちだからこそ暮らせるライフスタイルを示し、その実現に資する計画づくりとして考え、示していくことではないだろうか。
水戸は古く江戸時代に『一張一弛』、領民に対する時に厳しく、時に温かいまなざしのもとに整備されたまちで、今でもその思想はまちの核として残り、さらにそうした伝統を守りながらも変わり続けているという意味で、その柱となる精神が一貫していることが印象的であった。
自らのまちを愛する水戸市役所のみなさん(写真左から須藤氏、平戸氏、深谷氏)に案内していただき歩き回ったからこそ感じられたのかもしれないが、まちはそこに住む人々のためのもの、そしてまちを愛する人によって守られ、また変わり続けていくもの。水戸のまちはそんな原点を振り返りつつまた改めてまちづくりについて考える機会をくれた。

偕楽園の梅越しに遠く千波湖を望む

 

水戸芸術館塔シンボルタワー

 

水戸市役所のみなさんと納豆記念碑

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