コラム

2016/10/01世界への旅

国際本部  上席研究主幹柴田 勉

だいぶ前に、訪問国が、公私あわせ70を超えたくらいから、数え直すことをやめた。単に、全部の記録を正確に保持することが面倒になったことに加え、数え方の問題もある。例えば、旧ユーゴスラビアである。私は、留学時代に1週間ほど美しい国土にふれた。その後、旧ユーゴは7か国に分離した。私は今では数か国にあたる地域を、現クロアチアにあたる所を含め分離前に訪問したが、分離後はどこも訪問していない。そうしたことから、やめている。

どのように数えようとも、これから訪問・再訪する国は、そう多くはないであろう。再訪がかなわない国としては、まずアフガニスタンがある。日本開発銀行時代の40代の初め、具体的な国、組織を知らされずに数か月の海外駐在の打診があった。世界銀行出向から帰国し、自宅を新築して間もなくであったが、数か月なら問題はないと答えた。後に、スイスに新設される、ソ連崩壊後のアフガニスタン援助を調整する国連機関と知らされ任期も1年(後に延長で2年)となった。同国は当初の観測とは大きく異なり全土に和平は訪れることはなく、隣国のパキスタンへの出張は重ねても、アフガニスタン自体には1回しか出張できなかった。パキスタン国境から、ゲリラ武装部隊に護衛されて入国し会議室ともいえない場所でアフガニスタン人と討議を重ねた日々は忘れがたい。

イランも再訪することはないであろう。70年代末からの海外経済協力基金出向時、石油化学プロジェクトの視察で訪問した。ホテルで、親指の付け根を切ってしまい。フロントで止血剤の有無を聞いたところ、日本ファンの幹部が登場し、病院に連れて行くという展開になった。着いた時は、もう出血は止まっていた。病院の廊下では、頭から流血している人や、横たわって身動きもしていない人が溢れており、軽傷で診てもらうのが申し訳なかった。

長期滞在した国は、アメリカ3度計14年、スイス2年ということになる。前記のスイス ジュネーブでは単身赴任であった。安全・平和の国で、国連職員のため所得税も払わずお世話になったのに心苦しいが、当時こんなジョークを聞いた。外国人が自宅でパーティ中に、警官が来て10時過ぎに騒音をたてるなと注意した。警察を呼んだのは、そのパーティから早めに帰宅したスイス人の隣人だった。そのうち、これはジョークでなく事実と思え、以来週末には車で20分ばかりのフランスでしか外食をしなくなった。当時の同僚は、まだ紛争国の国連代表などに複数おり、無事での活躍を祈念している。

アメリカは最初、日本開発銀行からの留学で夏のカリフォルニアに初めての外国として到着、秋にコネチカットに移動した。2度目は世界銀行出向で、小学生二人を含む家族で過ごした。DC勤務で住居は緑深いメリーランドだった。3度目は、世界銀行への再就職となり、住居はヴァージニアのマンションだった。9.11にはペンタゴンの煙が見える中、徒歩で帰宅したこと、後半大病となり3回の手術を経験したことなどエピソードには事欠かなかった。

世界への旅での実りは、好奇心、語学、家族、友人、健康などの要素が大きく、私の場合はその多くに恵まれたといえる。最近ほど、非紛争国でのテロがなかったことは幸運であった。若い世代が安全で世界を雄飛されんことを願って止まない。

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