2012/02
「古き良き時代」
どの国、どの時代にも「古き良き」時代として理想的に想起される時代がある。
例えば古代中国の戦乱の時代にはさらに遠い昔にいたとされる王の治世が、ヨーロッパ中世末期、ルネサンスにあっては古代ギリシアがというように。近くはアメリカのティーパーティーグループもそれにあたるだろうか。彼らはアメリカが欧州から独立を果たそうとする時代を自身のよって立つ場であると、そのグループの名で示している。
日本ではどうだろう。
テレビ・雑誌や映画を見るに、現代日本で「古き良き時代」として人気があるのは坂本竜馬(ドラマ「仁」にも坂本竜馬が出ていましたね)や「坂の上の雲」の幕末~明治時代、そして戦後から立ち上がる昭和30~40年の高度経済成長の時代(「三丁目の夕日」の時代)、この2つがどうも取り上げられることが多いように思う。あの頃の日本は元気であった、日本人は夢を持っていたと。
後者については、仕事柄、耳目に近しいところもある。多くの地域で「昔はこの商店街はにぎわっていてね」、「子どもがたくさん遊んでいた」、「夜になると飲み屋はにぎやかだったよ」という話をしばしば聞く。1980年生まれの私の経験したことのない時代がそこにはあるようだ。我々の世代は1980年代後半から90年代前半のバブルの景気でさえも実感がない。
1月30日、私の誕生日だったこの日、国立社会保障人口問題研究所が人口推計を発表した。
推計(中位推計)によると2010年の総人口約1億3千万人は2050年には1億人を切るという。この2010年から2050年の間に、年代別では0~30代の人口が40%、50~60代で20~30%減少する一方で、70代以上の人口は50%増加し、高齢化率(65歳以上人口が総人口に占める割合)は23%から39%にまで至るということである。実に5人に2人が高齢者ということになる。日本全体が、現在国内で高齢化が進んでいるといわれる地域と同レベルの高齢化水準となるということだ。
この世界に先駆けて進む人口減少・高齢化にどのように対処していくか、世界で注目されている。
先程も書いたとおり私は1980年の生まれだから、2050年はちょうど70歳、5人に2人の高齢者のまさにその1人になるわけだ。私の30歳から70歳の40年、この国の人口減少・高齢化をわが身で体験することになる。
これは喜ぶべきことか、忌むべきことかともついつい考えてしまうが、2010年に生まれた私の娘は2050年に40歳になる。彼女が成長し大人になっていく社会を良いものとするのに、不平不満ばかり言っていられない。
2050年に娘たちから、あなたたちはよくやってくれたと思ってもらえるような、そしてこれからの時代を将来の人々が「古き良き時代」として思い出すようなものにしていきたいものだ。
東日本大震災からももうすぐ1年が経つ。震災復興も含め、やるべきことはたくさんある。そう思いを新たにした、今年の誕生日だった。

倉本 賢士
パブリック調査グループ
副主任研究員
2012/01
長野県軽井沢町―碓氷峠―群馬県松井田町(現安中市)
関東人の避暑地として、また観光地として有名な軽井沢の手前に碓氷峠という峠があることは、わりと知られています。この碓氷峠は、旧中山道の横川側の坂本宿と軽井沢の宿の間にあり、標高は1000mを切るものの、高低差が大きく中山道の難所として古くから知られていたようです。ちょうど、長野県の軽井沢町と群馬県の松井田町(現安中市)の境が峠の上になっており、信濃川水系と利根川水系の分水嶺にもあたるという地理的な特徴もあります。

現在は、横川―軽井沢間の鉄道は新幹線開通の際に廃止されておりますし、車は国道18号の碓氷バイパスか高速道路を通ることになり、昔の人が馬や旅装束で歩いた峠道は、山の中の旧道のままと聞きます。
初秋の頃、この峠道を歩いてみようと思いました。といっても、歴史的な難所を登って越える自信はなく、軽井沢側から横河側に降りるのであれば下りだからさほどたいへんではないだろうと目論んで、峠の頂上、分水嶺で、神社の中に県境があるという珍しい熊野神社のところから歩き始めることを考えました。熊野神社は旧軽の別荘群のすぐ先です。
この旧道の地図あるいは案内図が欲しいし、果たして歩く道は整備されているのか、台風などで崩れて通れないことはないのか、案内板などはあるのか、山の中で迷ってしまうようなことはないのか、そんな基本的な情報を知ろうと、軽井沢駅前の観光案内所に問い合わせて足を運んで見たものの、ほとんど全くと言っていいほど情報がありません。大観光地で、観光にとても力を入れている町で、さまざまな情報を発信しており、熊野神社とその手前の見晴らし台までは紹介されているのですが、町域は神社まで、その先は町域外どころか県外ですから業務範囲外になってしまい、横川に至る旧道に関しては地図も情報もないのです。私が当惑している様子を見て、周囲の人にあれこれ聞いてくださり「歩いたっていう人を聞いたことがあるからたぶん大丈夫」程度のお話を伺うことができただけです。
仕方なく、スタート地点と想定していた熊野神社を越えて、群馬県側に入り、旧道に入る方向に行ってみました。と、ほんの数十メートル、群馬県松井田側に入っただけで大きな案内板がありました。群馬県に入ったところにあるお団子屋さんには、松井田町作成の地図がありました。この峠で毎年、町の子供たちの山を走るマラソン大会があるから歩く道は概ね整備されていること、分岐は1か所だけ間違えなければ大丈夫なことなど教えてくださいました。なーんだ、松井田側では、ちゃんと情報を発信しているんです。
熊野神社をスタートして、坂本の宿を越え、アプトの道を通りJR横川駅に至るまで、馬や籠で越えるのはさぞたいへんだったろうなあ、山賊や熊が出るなど怖いこともあったろうな、と大木に日光が遮られた薄暗い山道を下りながら、遠い昔を想像できる旧道を下り、半日のハイキングで無事横川駅に出ることができました。
碓氷峠の知名度や、そして、実際は膝が笑ってしまいますが、下りの方が楽だろうと考える都会から観光客の多さを考えれば、松井田側だけでなく、軽井沢側で、それも峠の頂上を越した場所ではなく、多くの人が行きかう駅周辺や旧軽で、この峠と旧道ハイキングの情報を発信することでもっと多くの人が四季折々の旧道ハイキングを手軽に楽しめるのではないかと思うのです。旧道を歩いた先には、JRの廃止で整備された横川の「アプト遊歩道」があり、歴史的な変電所やレンガ造りの橋などが残されていて、鉄道の歴史も楽しめます。一休みできる場所の情報や、横川駅と軽井沢駅を結ぶバスの時刻、あるいはJR横川発の列車の時刻などがあれば、もっと碓井峠を楽しみ易くなるのになあ、と思います。碓井峠は、軽井沢側から降りた方が楽ですが、宿泊先や滞在する都会的な楽しさは圧倒的に出発点である軽井沢町に蓄積があります。人は、行政区分とは無関係にアクセスの良さ、魅力的なルートで動きます。軽井沢側から旧道を楽しむ人の立場にたった有益な情報を、町や県といった行政区域を越えて提供していくことで、都会からの訪問者がその土地にしかない魅力を知り、そこで滞在する時間を増やすことにつながるんじゃないかと考える経験になりました。
紅葉の頃や新緑の頃も素敵だろうと思います。夏も、標高が高く日陰が多いので比較的楽に歩けると思います。鉄道ファンにも楽しそうな、真冬以外は、いつでも歩ける手軽なハイキングルートじゃないでしょうか。野生の鹿や、全国街道踏破中の方にもお会いしました。昔の人の苦労に思いをはせながら、旧中山道碓氷峠を歩いてみてはいかがでしょうか。
秋田涼子
インフラ・環境グループ
主任研究員
2011/12
時代のコトバ

「この資料3部、“ゼロックス”しておいて」
社会人になって間もない頃、上司から言われて違和感を抱いたコトバである。当然それが「コピーしておいて」という意味であることはすぐに理解できたし、最初は(いやいや、これcanon社製だけど…)等と思いながらも、同様の光景が繰り返されるうちに次第に何とも思わなくなっていった。
また、年代は近いけれど少し上の上司が口にする「“ヤフー”で検索」と言うコトバに対しても、最初こそ(イマドキはgoogleだろ…)等と思いながらも、ちょっとしたジェネレーションギャップという程度の認識で深く意識することもなかった。
ある時、何気なくそんな話を同世代の仲間内でして盛り上がり、お得意のgoogleで検索してみると、今から50年も前、それまでいわゆる青写真である湿式のコピーしか無かった時代に、米国XEROX社が世界で初めて現在のような乾式の普通紙コピー機を開発し、オフィスに一大革命をもたらしたことを知ることとなった。同社の製品が先端でかつ市場を独占し、旧式機でコピーすることに対して、この新たな機械でコピーすることを「ゼロックスする」といって区別したとのだという。
とりわけ、この新しいコピー機が日本のオフィスに定着したと言われる1970年代から1980年代にかけて学生から社会人になった人々にとって、それは正しく、最先端のコトバだったのだ。
ヤフーの話も、インターネットの普及に加え、1990年代後半に出現したyahoo! JAPANを始めとしたロボット型検索エンジンが、当時の社会、社会人にその在りようが衝撃を与えたことを意味していると理解できる。
固有名詞が半ば一般化されて使用される例は身近なところでたくさんあるようで、「ホチキス(一説にステープラーの発明者名)」や「クラクション(自動車の警告ホーンを作っていた会社名)」等のように世代を超えて定着したものから、近年の例では写メールやツイッター等も元は固有名詞であることを認識されずに広まっているものと見受けられる。
冒頭のXEROX社の技術革新に限らず、いずれの例もその時代時代において少なからず社会や人々にインパクトを与えたことは間違いなく、日常生活において正確な商標に基づいた言葉遣いを心がけるというよりは、異なる世代の人が用いるコトバに違和感を抱いた際には、その背景を気にしてみると新たな物の見方が広がるのではないかと感じた次第である。
自分ではなかなか気付けないもどかしさがあるが、10、20年後、恐らく携帯音楽プレーヤーのことを「アイポッド」と呼ぶであろう私に対し、若い世代が(おばさんだな)と一瞥するだけでなく、ウォークマンの出現以降、それまで10数曲しか持ち歩けなかった音楽が突然に何千曲にもなった2000年代を過ごした若者の驚きを少しでも想像してもらいたいと密かに願うのである。
ちなみに、ブラジルではXEROXのことを「シェロックス」と発音するそうだが、50代前後の人の中にはコピーを取ることを「シェロカール」(もちろん、ゼロックスするの意)と呼ぶ人がいるそうだ。
松本麻里恵
調査本部
専門:建築・都市計画、公共施設マネジメント
2011/10
節電の夏を振り返る

東日本大震災後、義援金の次に日本人の多くが取り組んだのは「節電」ではないだろうか。
弊所でも「15%削減」を目標に、エレベーターの使用抑制、空調の温度設定(28℃以上)、電灯管球抜き取りなどの対策を行い、前年比で6月は36.5%、7月は31.0%、8月は30.2%、9月は37.7%の節電を達成することができた。
弊所の位置する関東地域では、震災直後からしばらく計画停電が実施され混乱をきたした経験もあり、さまざまな節電の工夫や冷感グッズが登場し、節電への取り組みは特に熱かったように思う。
家庭の場合、消費電力のおおよそ半分を冷房関連が占めるということで、エアコンの設定温度を上げる、すだれやよしず、ゴーヤなどを植える「緑のカーテン」によって日差しを和らげ室内の気温上昇を緩和させる、エアコンより電力消費の少ない扇風機(もしくはうちわ!)の使用を優先するといった対応により、家電量販店などで扇風機が一時は品切れになったりもした。
また、家では特に何もしてないという人でも、一歩外に出れば、電車は節電ダイヤで本数を減らして運行、車内や街の至る所で蛍光灯や電灯が間引き・消灯されており、エレベーターやエスカレーターは停止しているなど、消極的にでも何かしらの協力をしていたはずである。
各事業者や各家庭の節電協力により電力不足の夏を乗り切ることができ、副産物的な形で冷感グッズや扇風機などの需要に潤った業界もあり、電気料金が何割も節約できたという家庭が多くある一方、過度の節電による課題・弊害も見えてきた。
例えば
・街が通常より薄暗いためにひったくり事件が増加(逆に通常より自宅に早く戻る人が増えたために空き巣は減少)。
・街やオフィスが暗いことで気持ちが滅入り軽いうつ状態になる。
・製造業関係の操業日変更による介護・育児等への支障、家族と休みが合わなくなる。
・冷房の控え過ぎで乳幼児やお年寄りを中心に屋内でも熱中症になる。
・暑くて集中できず仕事の能率が下がる。
・エレベーターやエスカレーターの停止で、障害者や高齢者など本当に必要な人の使用も制限され、(物理的なだけでなく心理的にも)外出が困難になる。
・管球類の間引きにより通勤・通学時の読書などが視力低下・疲れ目と隣り合わせになる。
など大きなことから小さなことまで挙げだすときりがない。
その他、震災によるサプライチェーンの寸断から回復しつつあった自動車関連等の製造業においても「15%削減」が生産増のネックになったという声が聞かれた。
夏のピークを過ぎ、秋の声が聞こえてきた現在も、節電への取り組みは続いている。
外気温と室温の差が大きいためエネルギー消費量が大きくなり、夏以上に電力が必要となる冬が到来する前に、各取り組みについて今一度整理(今風に言うと仕分け)してみたらどうだろうか。
既に衣料品メーカーや家電量販店では冬の節電商戦が始まっている。家庭の場合、暖房については、厚着をする、保温性のある下着類を着る、湯たんぽや膝掛けなどを使うといった工夫で節電・省エネできる部分が大きい。
今のところは夏のアイディアが主だが、
政府の節電ポータルサイト「節電.go.jp(http://setsuden.go.jp/)」内の
節電アイディアボックス(http://ideabox.setsuden.go.jp/)では節電方法、グッズ、先進事例、失敗談などが投稿形式で募集され、公開されている。すぐに取り入れられるものもあり、興味深い。
冬は日が短い。安全や防犯、健康面も考慮した形で、無理をせず節電とうまく付きあっていく工夫が必要である。
間中敬子
ソリューショングループ
副主任研究員
2011/09
脱米入欧のすすめ

世の趨勢を見通す力ではE.トッドの右にでるものはいないだろう。古くは旧ソ連の崩壊を、近年では米国金融システムの崩壊を予言し的中させた。トッドはこれをアメリカ崩壊の序曲とみている。日本に関しては、欧州諸国との類似性を指摘しており、半ば冗談ながらEUへの加盟を勧めている。
米国経済で気になるのは、イノベーションの停滞である。世界で最もイノベーション環境が整った米国において、世界経済を牽引するイノベーションが生じないのはなぜか。無論、日本に比べれば盛んである。しかし歴史的にみて、例えば大戦前後の自動車、家電、コンピューター、エアライン、原子力などに比べれば、最近のIT革命は無きに等しい。携帯でゲームをしたりつぶやいたりするのがなんだというのだろう。これはケインズやシュンペーター、下村治らが懸念したイノベーションの停滞ではないのか。先進国の経済が押し並べて低成長なのは、その証左ではないのか。
ケインズは、貿易財はコモディティ化して頭打ちとなり、ライフスタイルなどの非貿易財が先進国ニーズの中心になると予言していた。食関連産業や観光業である。これらが細々とした成長のエンジンとなる時代、イノベーションによって向上した生産性を前提に、伝統的なライフスタイルを再構築する時代が訪れたのではないか。
TPPの議論は、この分水嶺に位置する。これからのイノベーションに賭けるのか、過去のイノベーションの果実と伝統的なライフスタイルの相乗効果に賭けるのか。各々の立場によっても異なるが、例えば地方圏や食関連産業では、後者を選択することが合理的とみられる。TPPほど大きな話ではないが、食品の地理的表示や品質表示において、我が国は、熱心なEU側ではなく、否定的な米国等の新大陸側についてきた。コスト勝負側に賛同してきたのである。少なくともそこは改め、まずは食からEU的な考えを入れてみる。そんな漸進的でハイブリッドな対応が、閉塞を打破する知恵となるのではないか。
佐藤淳
パブリック調査グループ
専門:芋焼酎等地場産業
2011/08
パブリックアートの力量

パブリックアートというと、どのようなものが思い浮かぶでしょうか。
よくあげられるのは、ニューヨークにある「LOVE」の彫刻です。現地でこの作品を見ると、いつもそこにあり、見る人の気持ちに語りかけ、心をちょっと温めてくれるパワーのあるパブリックアートだな、と感じます
日本の街にもたくさんのパブリックアートがあります。
日本におけるパブリックアートのはじまりは野外彫刻であると言われています。戦後に平和や自由を象徴した男女の裸像や母子像が設置され、1960 ~70年代には都市景観の形成手段、文化の時代・地方の時代の流れにより、「彫刻のある街づくり」として日本各地で多くの野外彫刻が設置されました。バブル崩壊後はパブリックアートへの関心が薄れたように見えましたが、ファーレ立川やさいたま新都心、六本木ヒルズや東京ミッドタウン等、設置主体や設置背景、設置空間の状況が違えども、パブリックアートを目にする機会は増えているように思います。最近では、パブリックアートとメディアアートを融合したデジタルパブリックアートというジャンルも出現しており、昨年、羽田空港で展示されました。私も展示の1つである大きな透明人間型の風船がふわふわ浮いている作品を見上げ、その姿に親しみを感じつつ、不思議な感覚にとらわれたことを覚えています。
わたしたちは、アートと接することで新しい感覚に出会ったり、美しさに心が癒されたり、様々な価値観をつきつけられることで自分自身の受容力の範囲を広げるきっかけを与えられるのではないかと思います。パブリックアートは、感想すら喋りづらい美術館のように緊張感を持つことなく自由に接することができ、また、美術愛好家ではなくとも、ふとしたところで出会うことができるアートなのです。
それゆえパブリックアートは、それが置かれた場所との関係性が非常に重要です。しかしながら現実には、自転車置き場化している広場であったり、公園奥の人通りがほとんどない茂みの中であったり、クルマの交通量が多い通り沿いであったりと、人に見向きもされない舞台に立たされている作品が数多く存在します。これはその作品にとっても、その街の人にとっても、なんとも悲しいことだと思います。置かれる場の状況をしっかりと検討せずに設置されたパブリックアートは非常に多いのです。必要なメンテナンスもされず、輝きも存在感もなくした駅前彫刻を助ける方法はないものかと、考えています。本来パブリックアートとは、置かれた空間と影響し合い、その空間を明るく豊かにし、それが街の魅力に繋がっていくような力を持つべきものであると考えます。そして、そのような作品こそが、力量あるパブリックアートなのではないかと思います。
この夏、遊びに訪れる街のパブリックアートに少し目を向けてみませんか?
その街に、その場所に、どのように佇んでいるでしょうか。見る人にさまざまな思いを触発させるような、そのパブリックアート独自の力量を発揮できているでしょうか、また、力量を発揮できる舞台にしっかり立っているでしょうか。
横山有理
ソリューショングル―プ
専門:BCP 、PFI・PPP、指定管理者制度
2011/07
想定外への準備
東日本大震災。土木を学んだ1人として、考えさせられることが非常に多い。
地震動、それ自体による構造物の損傷は目立っていない。地震の周波数帯が構造物に大きな影響を及ぼすものではなかったという分析も研究者によってなされており、安易に楽観視することは禁物だが、これまでの耐震化の成果と捉えてもよいのだろう。
ただし、建物の天井といった構造躯体でない部分が大きく損傷した施設は多数ある。建物の耐震設計では、建物自体の倒壊を防ぐことを最優先課題として、構造躯体は大きな地震でも最小限の損傷で済むように設計されるが、天井等については、対策はされているものの構造躯体と同様の耐震性を備えているとは言い難い。構造躯体への対策を最優先にすることは当然のことと考えるが、天井が落下するリスクを土木や建築と関わりの無い人がどこまで知っていただろうか。
震災被害の大半は津波に起因するものであるが、津波に対する意識が高く、また大規模に津波対策がなされてきた地域であったのに、これほどの被害が生じてしまった。自然の猛威の前には人間が微力であることを改めて認識させられる。
防災対策を計画する際には、過去に観測された既往最大値、あるいは観測データから算出した100年確率といった値を設定し、その規模の災害から人命・財産を守るべく計画することが一般的だろう。ここで注意が必要なのは、この既往最大値や100年確率値を超える災害が起こらないとはいえない、ということである。しかしながら、想定した規模の災害に対応するためだけの対策で満足してしまい、想定を超える災害が起こりうることを忘れていなかっただろうか。
どんな地震でも落下しない天井、どんな津波からも守ることができる防波堤といった、絶対に安全なものを求めることは現実的には難しい。であれば、天井が落下するリスク、想定を超える津波が発生するリスクといった情報を一部の専門家だけでなく、広く社会で共有し、リスクへの対策を準備しなければならないのではないだろうか。
天井が落下する映像が繰り返しニュースで放送された茨城空港ターミナルビルでは、復旧に際して天井を張らないこととした。また、今後の津波対策は、①発生頻度の比較的高いレベルの津波は防波堤等のハード対策で防ぎ、②それを超える津波に対しては避難等のソフト対策で被害を防ぐ、という2段階で進められていくようである。これらは、天井が落下するリスク、想定を超える津波が発生するリスクというものが、認識された結果であろう。
震災後のニュースで頻繁に聞いた「想定外」という言葉からは、想定に対する対策を行っていれば安全であると思いこみ、想定を超えるリスクを無視してきたように受け取れる。適切な想定を設定し、その想定に基づいた対策を行うことはもちろん重要であるが、それだけで安心するのではなく、想定を超えるというリスクへの準備も怠ってはならないのだと、自分への反省も含めて痛感している。
復旧した仙台駅構内(天井は張られていない)
柳沢宏之
パブリック調査グループ
専門:都市開発・地域開発
2011/06
環境負荷低減への気づき

私どもは、(株)日本政策投資銀行と連携して、いくつかの地方銀行における環境格付融資立ち上げのお手伝いをしております。紙幅が限られているため乱暴に書きますが、環境格付融資とは、環境配慮型経営を推進する企業に対して、金融機関が設定した基準によりその内容等を評価し、金利の優遇などによって、金融面から各企業の取り組みを支援していこうとするものです。
地域密着型金融機関である地方銀行の特徴の一つとして、顧客に中小企業が多い点があげられますが、環境格付のためのヒアリングに伺うと、「エコプロダクツ?作ってないなあ」「環境配慮?特に何もしてないけれど」という企業が多いのも事実です。しかし、そういう企業の話をよく聞いてみると、環境負荷を低減させる工夫をした事業活動を遂行している企業もまた多いのです。
キーワードは「無駄の削減=費用の削減」。具体的には、コスト削減が省エネ・省資源化等の取り組みを通じて実現されている事例が多くみられます。概して、コスト削減の取り組みは環境負荷低減に繋がることが多いのです。コストの削減は利益率の向上に繋がりますが、以前と同じ生産活動を行うために必要な費用が少なくなる、あるいは、以前と同じ費用でより多くの生産活動が行えるようになるのであれば、概念としては「生産性の向上」とも表すことができます。
環境配慮型経営などというと敷居が高いように感じたり、ウチには関係ないと思われたりするかもしれませんが、コストの削減・生産性の向上という観点に立てば、取り組みやすくなるのではないでしょうか。
さて、東日本大震災の発生から3カ月近くが過ぎようとしています。今回の震災は、広域・広範・長期に渡る点が大きな特徴と言えるでしょう。広域性とは被災エリアのことですが、広範・長期というのは、サプライ・チェーンの寸断や電力供給不足による生産・消費活動への制約に起因する、”非”被災地域・主体への多大な影響を指します。被災地域を支えなければならない”非”被災地域・主体への影響は懸念されるところであり、電力需要のピークをいかに抑えるか、目下の重要な課題の一つとなっています。
事業活動に制約が設けられている業態もありますが、概ね、企業・家庭ともに節電意識が高まっているように見受けられます。”非”被災地域のご家庭では、「電気ご使用量のお知らせ」の4月、5月の電力使用量=電気料金がかなり減っていたのではないでしょうか。事業活動への制約があった事業所は別として、非製造業系の企業・事業所でも同様かと思います。
我が国は、2020年までに1990年比で温室効果ガスの25%削減を表明しており、家庭やオフィスでの取り組みも大きく期待されているところですが、今回、電力使用量だけみても、その気になればけっこう減るものだなあ、と感じられた方は多かったのではないでしょうか。冒頭の話に戻ると、企業にとっては、コストの削減=環境配慮型経営への第一歩という、気づきを得るきっかけになったのではないかと思います。
今回の震災は甚大な被害をもたらしました。得られた様々な教訓を無駄にすることは許されないでしょう。企業も家庭も、電力供給の制約を機に、無駄なエネルギーの消費を抑止するという成功体験を得たのですから、将来、平時に戻ったときには、環境負荷低減に思考スイッチを切り替えて、引き続きエネルギーの浪費には注意を払いたいものです。
ただし、いくら電気料金を節約したいからといって、作業環境や生活環境を悪化させては、生産効率や健康状態は悪化します。従業員や家族が体調を崩しては元も子もありません。企業について言えば、製品・サービスの品質低下に繋がらないような工夫も求められます。
今回の震災を踏まえ、企業・家庭ともに、できることから環境負荷低減の取り組みを進めていくことで、環境配慮型社会への動きが加速されることを期待します。
坂野航
インフラ・環境グループ
専門:インフラ、環境
2011/04
大津波と三陸海岸

沿岸漁業の漁船が集結する宮古港。山陵が迫るリアス式海岸の典型的な漁港。
春分も近くなり漸く暖かさが訪れようとした3月半ばに未曽有の大津波が三陸沿岸に襲来しました。正確な波高は計測中ですが、宮古市北部では海岸部の斜面沿いに海抜38mの地点まで波を被った跡が発見されたようです。明治29年6月の津波では綾里村白浜(現大船渡市)でやはり38mの波高を計測してますので、おそらく津波の規模はほぼ同程度と推定されます。38mという高さは13階建のビルの高さに相当します。明治29年、昭和8年の津波は夜半襲来したため一家あるいは集落が全滅するなど被害は凄惨をきわめましたが、今回は昼過ぎだったことがせめてもの救いかも知れません。
昭和8年以降で被害が生じた津波は昭和35年5月のチリ地震津波です。南半球で大地震発生の22時間後に襲来し、大船渡市53名、志津川町(現南三陸町)41名の犠牲者の他に多数の住宅、養殖施設等の流出被害が出ました。今回の大津波は実に51年ぶりです。物理学者・寺田寅彦の「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉を痛感させるものです。
相次ぐ大津波による被害に対して戦前から長期にわたって構築された宮古市北部、田老町の高さ10mにも及ぶ堤防はチリ地震津波を凌いだものの今回は耐えきれませんでした。辛うじて被害を免れた集落として三陸北部の普代村、宮古市の姉吉地区が挙げられています。普代村は津波を経験した村長が集落の海沿いに高さ15mの防波堤を築いたこと、姉吉は津波の教訓により高台に集落を移したことによるものです。姉吉には「此処より下に家を建てるな」という碑銘を刻んだ石碑が残されています。
しかしながら、三陸地域の生活環境は海の存在を欠いては考えられないのです。背後地の北上山地(最高峰:早池峰山1,917m)は古生層で構成された概ね1,000m以下のなだらかな丘陵地帯ですが、鋸状の深い入江が続くリアス式海岸まで迫っています。平坦な土地は限られていますが、それでも人々が海岸近くに居住を続けてきたのは目前の海が世界有数の漁場であったからです。
冷涼な気候で米作は困難なものの北からの親潮と南からの黒潮が交わる三陸沖はマグロ、カツオからサンマ、イカ等に至るまで多種類の漁獲があり、また沿岸部はワカメ、コンブなど海藻類のほかにウニ、アワビ、カキ、ホタテ、ホヤなどわが国の食卓には欠かせない食材の宝庫です。秋になると沿岸の中小河川には数十万匹のサケが産卵のため遡上します。東京・築地に入荷する魚介類の20%は三陸物が占めていると言われますが、水産業が基幹産業であることが津波の被害を大きなものとしています。
江戸時代、三陸地域の干アワビは高級食材として廻船で運ばれ、長崎から貴重な俵物として中国等へ輸出されていました。民俗学の古典である柳田国男著「遠野物語」にも岩手県の内陸部と沿岸部との日常の交流が描かれています。気候のきびしさ、度重なる災害で沿岸部には歴史的建造物等は殆どみられませんが、宮古市郊外に築250年余り、伊能忠敬が測量の途中に立ち寄った素封家の屋敷が残っています。文化庁から登録有形文化財として認定されていますが、江戸に物資を運ぶ廻船の部材とか古道具類、さらに江戸から持ち込まれた書画等は往時の盛んな交易を明らかにしています。古来、海との共生は三陸地域にとって言わば宿命的なものでした。
今後、新たな防災対策を講じながらも産業再生のため水産業の復興が始まると思います。
東アジアなどグローバルな経済動向をみると、エネルギーだけでなく食料需給が世界経済の大きな課題として予想されます。わが国の食料需給については農産物の保護だけがテーマになりますが、水産業は昭和52年の領海200海里宣言と同時に自由化され海外の水産物が大量に輸入されています。三陸地域の水産業は自由化後もわが国の食卓に豊かな食材を供給してきたのです。再生の道はきびしいながら新たな水産業の興隆のため国を挙げての支援が望まれます。
柳内久俊
パブリック調査グループ
専門:都市経済、地域再生







